あの人、気難しいなっていぶかしがる気持ちって 自分の中で気難しい気持ちみたいなものが 反応してるとも言えなくはないかい? 君の心がムズムズとムズがっているね。 |
# by mipo-chiro | 2009-05-23 21:27
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田丸美紀がダウンタウンDXで雨の日に別れ話を切り出すのが嫌で 別れを決意したのに当日雨が降って伝えるのを延期、雨の日が続いて 別れ話がのびのびになることがあるみたいなことを話してて、 理由としてはただでさえ別れることで憂鬱なのにそれに 雨がプラスされるともっと憂鬱になるからみたいなことを言っていて 笑ってしまったことがあった。 恋愛ってさぁ、やっぱタイミングってのは大事って気はする。 ちょっとしたタイミングでうまくいったり、ダメになったり。 でも本当はタイミングなんて関係なく、どんなに不利な状況に 置かれようとも、お互いに惹かれ合い必要とするような 恋愛が理想ではありますが。 誰かを好きになりました。 その人と付き合いたいと思います。 そこでその相手と駆け引きやアピールなどをして 相手の反応を見ながら距離を詰めていくというか 相手の出方を伺ったりするわけじゃないですか。 で、相手の感触に手ごたえを感じたり、 向こうから告ってくれれば願ったり叶ったりなんだろうけど なかなか距離が詰まらなかったり、 相手の気持ちがわからないとか、いい感触とは言えない ケースもあって、人によってはそこで醒めちゃったり あきらめて次行っちゃえる人もいるんだろう。 で、ダメっぽいとか自信ないんだけど、告って どうしても気持ちを伝えたいとか相手の気持ちを 確認しないと次行けないとかフラれたとしてもあきらめないけど とにかく勝負したいとかって人もいるんでしょう。 告ることが勝負っていうのは単に相手に想いを伝えるのが 恥ずかしくて勇気がいるってのもあるかもしれないけど 告ったことによってフラれた場合、関係がギクシャクするとか 友達としていられなくなるかもしれないってリスクや不安もあるわけで そこを承知であえて告るから勝負になるわけです。 それは真剣勝負の賭けというか、そうゆう状況(あまりいい手応え を感じない)告白というのは非常にタイミングが大事なわけで 例えば、その想いを友達に話して噂が広まり好きな相手に 伝わったとか、友達に相談しただけなのに勝手に好きな相手に その友達が探りを入れて好きな相手に自分の気持ちを勘付かれる ようだったりとか、そうゆう中学、高校生くらいまでによくありそうなのって 間接的に相手に伝わってラクではあるけれど、 自分のタイミングで行かへんぶん、なんか運命っていうのかなぁ それが狂ってしまうというか、僕が想う側やったらそうゆう伝わり方は 納得いかんというかすごく不本意なことですね。 もしも僕が好きになられた相手であるとして間接的にその人が 自分の事を好きになってくれて付き合いたいと思っていることを 知らされるとする。 そしたら、その時点で真剣に付き合うのか付き合わないのか 答えをだすシュミレーションをしなければならなくなる。 もちろん、考えるまでもなくOKな相手なら万々歳だけど、 すごく大事な友達である場合、微妙、もしくは、ほぼダメな場合。 その時点でNOの答えをシュミレーションしなければならないのは 悲しいことだ。 本人に直接言われてもいないのにそうゆうことを想像して 自分の中で確認するのはなにかスッキリとした気持ちになれない。 結果は同じであっても自分のタイミングで自分の口から 直接告るが一番納得いくんじゃないだろうか? ほんのちょっとのタイミングでお互いの精神状態なんかも違うから その答えだって違ってくるかもしれない恋だってあるはず。 明日の僕は今日の僕とは違う。 明日の君は今日の君とは違うんだろう。 一年後の僕は今日の僕とはずいぶん違っているかもしれない。 一年後の君は今日の君とはずいぶん違っているかもしれない。 だから想いって自分が決断するまで心に秘めておくものだと思うんだ。 |
# by mipo-chiro | 2009-01-12 03:20
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知らない人に道を尋ねるとか、お店の人に商品の場所がどこにあるのか などを訊いたりするのがトラウマだった。 小学校や中学の時はクソ生意気で嫌われ者だった。 小学校の頃、書道のすずりだか絵の具のパレットだかを忘れて 教科書のように隣の席の人に見せてもらえるものではないので クラスの友達は裏技として隣のクラスの知り合いに 借りに行くというのでついていった。 隣のクラスに入ると友達の知り合いは席をはずしているようで テキトーにそこらの知らない人に声をかけて借りていた。 そして僕の分もさらに知らない人に「貸してやってくれ」と 頼んでくれて貸してもらえた。 それに味をしめた僕は忘れ物をしないように 反省するとか対策を立てるなどの基本を忘れて また忘れ物をしてひとりで隣のクラスに乗り込んだ。 僕は隣のクラスの知らない人にテキトーに「貸して」と声をかけた。 「今貸した」とか「僕も忘れた」と断られて、めげずに次に声をかけた。 するとシンジラレない一言が・・・。 「おまえだけには絶対に貸せへんは!」と名指しされて断られたのだ。 さすがに自分が知らない人にまで僕は嫌われていたのかと思うと 結構へこんでそれ以来、僕は他のクラスの知らない人に 物を借りに行くことをしなくなった。 そして結構最近まで、知らない人に道を尋ねたり、 店員さんに商品がどこにあるのか訊くことでさえ軽いトラウマだった。 今はしかたなく道を尋ねたり、商品の場所を訊いたりしていくうちに みんな親切に対応してくれることが続いたので大丈夫になったけど、 ネットなんかだといろんな人がいて、匿名性なんかも後押しして 僕にとってはトラウマの傷口が開くような冷たい扱いを受けて 時々、必要以上にへこんだりすることがある。 でもその分、人の気持ちには敏感になれたんじゃないかと思っている。 人に親切にすることを純粋に楽しいと思える。 サービスをすることの楽しさを知った。 それは極上の幸福感でありずっと今まで大切にして守り、磨き続けてきた。 人が楽しんでくれるということを極上の幸福感だと感じれるのは 僕がちょっと自分を誇らしく思える才能だと思っている。 |
# by mipo-chiro | 2008-02-20 03:09
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子供の頃、テレビでおすぎとピーコが話してるのを初めてみたとき、 母に「なんでこの人達は女の子の言葉で喋るの?」と訊くと いちいち説明するのが面倒だったのか「冗談で言ってるのよ」と母は答えた。 それを真に受けて僕は中学生?あわよくば高校生くらいまでずっと 俗に言うことのオカマキャラは冗談でやっているんだと思っていた。 そう言えば夫婦ゲンカとか浮気とか、所帯持ちのタレントさんが武勇伝的に 告白する話なんかも冗談やと思っていて、 確かに離婚とか浮気ってのは存在するものとはわかっていたけど、 いたとしてもそれはホンの一握りであって、 武勇伝っぽく笑いながら話してる事が多いからホンマはずっと好き合っていて これからもずっと好き合っているものやと 子供の頃は夫婦とはそんなもんやとばかり思っていたのやった。 |
# by mipo-chiro | 2008-02-06 02:43
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芸能人の男女の交際報道があって、それをいちいち当事者が 「友達です」とかコメントしたり記者会見開いたりするのは 野暮ってもんじゃないだろうか? 無言を貫くべきであって、「なにもなければ否定するはずや」なんて 大衆のカングリなんか気にしなければいい。 そんな単純なものやないやろと思う。 だって、男と女、仮に友達同士やったとしても、 どちらかが思いを寄せていたり、場合によってはお互いに確認できてないだけで、 両思いだったりするかもしれないわけで、 現時点では友達としか思ってなくても、 後々に発展していく場合だってあるわけだし、 恋愛って一回会ったらすぐ白か黒か決めにゃきゃいかんってものではなく、 もっと流動的で、向き合ってだんだんとその人を知っていったり、 時間をかけて育んでいく愛だってたくさんあるわけで、 「友達です」と言い切ってしまうと 聞かされた相手にとっては「ああそうなんや」と 傾きかけていた気持ちに水をさすことにはならないか? それで醒めればそれだけのもの、とか芸能人の宿命であって そこもふまえて芸能人は恋愛しろと言えばそれまでだけど 問題にしてるのは聞く側のデリカシーのなさだ。 でも、こうゆうのって芸能人に限らず、 一般人である僕らにもあることでカメラこそ向けられてないものの 例えば仲良くしている異性の友達と一緒にいるところを 自分か相手の知り合いと遭遇した時に 「二人は付き合ってるん?」みたいなことを聞かれるのも ちょっとそこで試されるというか、運命に触れられる感じがせんでもない。 だってその質問って「友達です」と答えざるを得ないし、 それか告白めいた表現をするか それかジョークでごまかして逃げるかしかないじゃないですか。 告白なら自分のタイミングでやりたいし、 ジョークで茶化せばなんか軽い感じになるし、 わかっていても好きになりかけてる人に 「友達」の線を引いてしまう発言は悲しいものだ。 わかっていても好きになりかけている人に 「友達」の線を引かれるような発言をされれば寂しいものだ。 うちら、一般人は相手と同席してない時に 「あの人と付き合ってるん?」と聞かれるぶんには 聞いた人が秘密にしてくれれば相手にも内緒ですむわけだが、 芸能人がカメラなどメディアに向けて話すってことは 同席していなくても筒抜けなわけで だから、無言を貫くしかないわけですよ。 |
# by mipo-chiro | 2008-01-27 23:19
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NHKの特番で集団的自衛権について討論していた。 集団的自衛権という言葉の意味を知っているか?の アンケートで、はっきりした数字は忘れたが、 知っている人、知らない人、共に40%台で、 わずかに知らない人が2~3%位多かったと思う。 実は恥ずかしながらも僕は2~3%多い方に属していて、 言葉としては認識してたけど、意味としてはその番組で初めて知ることになる。 番組の説明では自分の国が他国に攻撃された時に、 自国で防衛するのが個人的自衛権で、 同盟を結んだ国が他国の攻撃を受けた時に、 防衛の手助けをするのが集団的自衛権というようなことを説明していた。 他国のミサイルが同盟国を襲った時に日本が打ち落とすのはアリかナシか? 他国が同盟国を狙う戦闘機を打ち落とすのはアリかナシか? という賛否も問われているらしい。 (説明はうる覚えなので解釈の違いや表現に誤りがあったらごめんなさい。) 日本の場合の同盟国はというと、例の世界番長アメリカになるわけですが(笑) その特番では同盟国であるアメリカが他国に攻撃を受けた時に 日本は集団的自衛権を発動するのか? という問いに賛否分かれての議論になった。 その問いに僕が一番最初に思ったのは、 ① 現状のスジ的には同盟を結んでアメリカが助けに来てくれるのに 同盟がピンチの時にこっちはなにもしないというのはスジが通らない。 ②自衛というのは戦争とはまたちょっと違う。でも、関われば戦争に 巻き込まれる可能性はある。けど、ミスミスこのミサイルを見逃して たくさんの市民が犠牲になるんなら、うちらの対空ミサイルで撃墜したっても いいんやないやろか?という考えがよぎり、 でもそれは同盟国のアメリカだけに対することだけではなく、 アメリカが敵国に撃ったミサイルさえも打ち落としたいという思いであり、 結局、僕は人命第一主義なんやなぁと思った。 ん?っていうかそもそも、いじめっ子の世界番長アメリカが ほとんどすべての戦争ってふっかけてないか?? 自衛権なんて被害者的な言葉使うから正当防衛的なイメージがあったけど、 今のアメリカに集団的自衛権を発動するのって、 間接的に戦争にかかわってるってなもんじゃなく、 かなりの直接的な戦争加担なんじゃないかと思う。 例えば敵が10000発のミサイルを現時点で持っていて、 アメリカが対空ミサイル8000発、日本が2000発持ってるとして すべてのミサイルを迎撃できたとすれば、きっちり相殺できるわけですが 仮に日本が集団的自衛権を発動する気がなければ、 アメリカは2000発分のダメージを受けるか、 足りない分の予算や人手などの労力や資金などを回さなければいけなくなる。 さらに例えればK-1のリングでアメリカ選手と敵の選手が戦うことになって、 日本はアメリカの黒子としてアメリカの左右のどちらかの脇に立って 攻撃は一切しないけど、パンチやキックは打撃ミットで受けてるようなもんで、 それってアメリカは基本的に片側のキックやパンチのみ警戒はゆるくできて、 その分攻撃に専念できるし、相手の攻撃を腕やスネなどできっちりブロック して急所をはずしていたとしても、ダメージは蓄積していくわけで、 日本はそのダメージの一部をカバーする役割をしているわけだから、 それはもう明らかにその試合という名の戦争に日本は加担してるわけですよ。 結論 戦争放棄国である日本は戦争放棄国同士で 相手の本土が攻撃された時に限り、敵国からの防衛を協力するのみの 集団的自衛権しか成立しないんじゃないでしょうか? |
オウム真理教の出家信者だっただろうか? ワイドショーの中継でレポーターが早足で逃げ去ろうとする出家信者を 追っかけながら「洗脳されてるんじゃないですか?」 「マインドコントロールにかかってるんじゃないですか?」 とマイクを向けると、触れてはならない琴線に触れたのだろうか? 無視を貫こうという意思を現わしていた早足を止めて 信者はおもむろにこう言い放った、 「マインドコントロールにかかっているのはあなたたちなんじゃないですか?」 その様子を見ていたスタジオの司会は失笑し ゲストコメンテーターは「逆切れ」だとヒステリックな笑みを浮かべていた 僕も初めてそれを見た時は信者のしていたヘッドギアと呼ばれる 大げさに電気系統の配線が入り乱れた帽子というか頭に巻くものが ヒーロー物に出てくる悪の組織が捕らえてきた人間を改造人間にするために 無理矢理かぶせるような小道具のようなうさんくささも手伝って 一緒になって笑っていた。 でも、何年かして彼らの立場になって考えてみると、 彼らがマインドコントロールにかかっていようがいまいが 自分は正常だと思っている僕らだって 軽いマインドコントロールな様なものにかかってるんじゃないか? という意味合いでならわかるような気がする。 普通に平和に暮らしていて自由にいろんなことを自分の意思で 選んでいると思っている我々でさえ 実は軽いマインドコントロールの様なものに かっかっているんじゃないかとこのことを思い出すたびに思う。 たぶん、彼らの言い分はこうじゃないかと勝手に解釈してみる。 「あんた達は私の信仰している宗教の教祖に洗脳されていると言う。 でも、それは私が自ら選んで真剣に信仰しているだけ。 あんた達は信仰しているものをよく知りもしないで、 見てくれや噂だけで洗脳だの変だの決め付けて 世間からつまはじきにしてるじゃないか」 こんな感じじゃないだろうか? 物事の本質も知らないで偏見をもった見方をする。 少数派であり常識からはずれていると誹謗、中傷する。 そうゆうのも結局、自分の自由な意思で選んでいない マインドコントロール的な価値観じゃないのか?と そうゆう意味ならそれは一理あるんじゃないかと思う。 誰か一人が勝手に言い出して決めたことが新興宗教の経典だとしたら みんなでいつのまにか決められていたことが常識という名の社会が 作った経典とは言えないか? 例えば、自分の住んでいる街に信仰宗教団体がやって来るでもいいし 火葬場でも墓地でもパチンコ屋でも核施設でもドンキホーテでもいい。 もちろん立地にもよるが住宅地近くにできるなら住民にとっては 騒音になるものや、自分たちにとって不利益になるようなものが やってくるとだいたい反対運動が起こるわけで 運動に参加しろだの署名しろだの言ってくるわけで もし、参加しないとか拒否すれば運動をしている人を中心に 感情的なしこりができるだろうし、村八分的な事も起こり得るのではないか? その人達の中では同じこの街の住民であって、 自分達の身に明らかに不利益なことがふりかかって来ようとしているのを 必死になってふり払おうとしているのに何で協力できないんだ?と思うだろう。 でも、仮に来るもの拒まずをモットーとしていたり決して愉快な事態だとは 思わないけど宗教団体でしか生きる場所がなくてどこからも排除されて 受け入れられる場所がないというのは救いがないから 運動に反対するつもりはないけど受け入れないことには署名できない。 と考える人がいたとしても、その主張を果たして まともに取り合ってくれるだろうか・・・? その人の中では常識的であたりまえと信じきっていることでも 本当はそこには強制権はなくって人それぞれに考えや意見はあって 自由はあるべきで、そこに苛立ちやピリピリした空気や大勢での プレッシャーなどをかけるというのは本当の自由と言えるんだろうか? こうゆうのって町内会とかに限らず、 学校とか職場内とかサークルとか仲間内など もっと身近にそうゆう強制的なプレッシャーみたいなものは存在していて もちろん、もっとライトなものかもしれないけど NOとは言えない空気をかもし出していて それって子供のいじめとかハブリとかいうようなものより 直接的な暴力さえ振るわなければ正当だと思い込んでいるという 自覚や進歩がない分、タチが悪いいじめとは言えないだろうか? 軽いマインドコントロールな様なものにかかっているとは言えないだろうか? |
マインドコントロールにかかっている状態の人って、 心に邪念が無く(少なく)純粋な心が精神の大半を 占めている状態のような気がする。 マインドコントロールっていうのは僕の解釈では かけた人が絶対的存在になり、その人の言うことや 命令が絶対的にまでなることかな。 自分の意思をも凌駕する絶対的な存在になってしまうことですね。 人は誰しも真剣だったり純粋な心を持つ反面、 スケベ心だったりジェラシーだったり他人を蔑んだりと 邪念を持ち合わせているし、 そうゆう誘惑や邪な気持ちと戦って生きている。 そうゆう自分のマイナスの面だけを見つめ続けていると 自分がすごく不純な気がしてくるけど 実はそうゆうマイナス面もあってマジメで誠実な面も 持ち合わせていて人は精神のバランスを保っているというか 正常化しているような気がする。 例えばボランティアをしたいという気持ちがあって 本気でボランティアするなら贅沢はやめて自分の全財産 を投げ打ってでもできるか?と考えると ほとんどの人はそこまではできないと思う。 そして、そんな自分を中途半端で許せなく思う人もいるだろう。 でもそれは極論であって、あくまで極論とは想像してみて 自分をふるいにかけてみたり自分の気持ちを計ってみたり するものであって、人に何かを施したりするのは その時に自分のできる範囲とか気持ちでいいんだと思う。 それこそスモーカーでありながら健康オタクのような 自己矛盾でいいんだと思う。 それなのに純粋を求めるがあまり、有り金全部的な考えを 実行してしまうまで精神を追い詰めてしまうから よくある新興宗教で脱退後、高いツボを買わされたなどとトラブルのだ。 マインドコントロールのかかったまま、なんの疑問も浮かばず 一生をまっとうすればその宗教やら教えやらが たとえ嘘や真理とは逸れたものでもその人は救われたまま 完結するわけだ。(もちろん家族や友人は苦しむわけだが) しかし途中でマインドコントロールから完全に覚醒すると 高いツボは救われた期間の高い対価だと 納得できない人だと話はややこしくなる。 人は誰しもジェラシーやスケベ心だったり 汚くて醜い面を持ち合わせているもの。 それらを潔癖的に排除しようとするのではなくて そうゆう醜い自分を受け入れ、戦い 自分の許せる範囲まで減らしていくことが大事なのであって ビフィズス菌とかオリゴ糖とか?善玉菌もあるわけで なんでもかんでも除菌除菌でファブリーズ すればいいってもんじゃなくって 自分で上手にバランスを保っていくことが大事なんじゃないだろうか? |
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